バガン&ホイアン便り - ミャンマー・ベトナム観光 情報ブログ

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ヤンゴンプレス・11月号連載「バガン通信」

最近すごいこと発見したんですけどね、アノーヤター王の時代はシュエサンドーパヤーが最大で最重要のパゴダですよ。そしてニューバガンのローカナンダも彼の建立と言われています。一方シュエジーゴンパゴダは彼が建てようとしたものの未完に終わり、チャンシッター王が完成させてます。

それでですね、アノーヤター時代のこの3つのパゴダですが、シュエサンドーパヤーを起点として、ローカナンダまでの距離とシュエジーゴンパゴダまでの距離が等距離だってことが分かったんです。ってマニアックですね。ははは

いつかこれ、解明されますよ、きっと。ああ、目が黒いうちに見たいですね、なんかすごいものを(何だか想像できていない)。

※長い余談ですみませんでした・・・ ↓↓↓本題です(笑)

 

~東方見聞録「ミエンの国」と「銀のパゴダ」(その2)~

 

「この町には黄金の塔と白銀の塔があり、太陽に照らされたそのまばゆいばかりの輝きは、世界の中でもっとも美しい風景のひとつといえ、遠くからでもそれらをはっきりと望むことができる」

 

「東方見聞録」にある黄金の塔と白銀の塔はどこにあったのか?

一般的には「黄金の塔」は、シュエジーゴンパゴダに比定されています。今も昔も金の仏塔といえばミャンマー中のパゴダの原型となったこのパゴダをおいて他にありません。

一方「白銀の塔」は、存在したという記録が残っていないので分かりません。

文章を読む限り、金銀の塔はツインタワーであるかのように描かれています。少なくとも至近距離に2つの塔が並んでいる様子がわかります。

私は、仮にマルコポーロが実際にバガンに足を運んだのだとすると、シュエジーゴンパゴダがかつてツインタワーだった可能性が高いと思っています。理由は、戦災や破壊行為を経ず現在に至ったバガンでは王朝時代のパゴダが数多く現存しているわけですが、金銀の仏塔が並んで建っていた痕跡が陸地にはまったくないからです。そしてシュエジーゴンパゴダはエーヤワディー川の浸食により現在すぐ裏まで川が迫っています。つまり、金銀の塔はかつてツインタワーであったが、銀の塔は水害により消失してしまったという推測が成り立つのです。また、シュエジーゴンパゴダ自体も一度大規模な水害により現在の場所に移されているという事実もあります。

 

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逆にもしマルコポーロがバガンには実際に行っていないのであれば、夕日の名所であるシュエサンドーパヤーが「白銀の塔」だったのではないかと考えています。「黄金の塔」がシュエジーゴンパゴダであるとすると、時代背景としてそれを建てさせた「偉大な王」とはアノーヤター王でなければならず、この王が建てた代表的な仏塔がシュエサンドーパヤーなのです。

「東方見聞録」には“指の長さほどもある純銀を打ちつけてできている”とあり、現存する仏塔の形状から他の多くのパゴダは「白銀の塔」にはなりえません。釈迦の遺髪を納めたとされるシュエサンドーパヤーは、アノーヤター王の時代にはバガンでもっとも重要で且つ最大の建築物であり、数千の仏塔の中で別格でした。また、城郭の東南角に立っていることから、王城の守護としての役割を担っていたと考えられます。これらのことから、シュエサンドーパヤーが当時は双璧のひとつとして純銀で覆われていた可能性も十分考えられるのです。

 

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ただ、私自身はマルコポーロはバガンまで行っていないと考えています。なぜなら、「ミエンの章」では金銀の塔ばかりが取り上げられていますが、マルコポーロの時代には既に建立されていた巨大寺院がまったく触れられていないからです。アーナンダ寺院を含め、現存する6つの巨大寺院が出てこないということはやはり伝聞だと考えた方が自然でしょう。

いずれにしても、バガンはロマンが尽きません。この辺のこともほとんど研究されていませんので、ユネスコや東京文化財研究所の今後の調査に期待したいところです。

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