ヤンゴンプレス12月号連載 「パガン五千坊」
こちらで戦争の話を聞く度に思うのは、ビルマの人々は日本兵の遺体を埋葬したり、お墓をつくってあげたりと熱心な仏教国らしく手厚くしてくれたということです。
遺骨収集が始まるということですので、これでやっと日本に帰れますね。
ヤンゴンプレス12月号掲載・バガン通信
パガン五千坊
時折ニャウンウー空港に日本人のおじいさんがひとりで来る姿を見かけます。そしてきまって、これまた見たこともないような年輩のガイドが待っているのです。ああ、戦友の供養に訪れたのだなと思い、この地がかつて戦場であったことを改めて認識するのです。
太平洋戦争の激戦地であるビルマの中で、バガンでは大きな戦闘は起きていません。ただ車で3時間程の距離にあるメイッティーラ(メイクテーラ)はインパールからの後退途中に激戦となり、多くの死者を出しました。
何の知識もなくバガンの地に赴いた日本兵たちは広大な遺跡群を目の当たりにしてさぞかし驚いたことだろうと思います。
同じ仏教国である日本から来た部隊はこの遺跡を戦場にしてはいけないと思ったのでしょうか、戦時中の駐留地も遺跡から少し離れた場所にありました。
メイッティーラが激戦地になった理由は、ひとつにはこの近辺には当時飛行場が5つもあって、ビルマ戦線において重要な要衝であったことが挙げられます。そのためバガン周辺でも空港のあったパゴックなどで戦死者を出しています。この激戦で撤退する日本兵の中にバガンに逃げ込んだ兵隊もいました。
イラワジ川中流域は、ビルマ平原の真ん中に位置しますので隠れるものは何もなく、古い仏塔や寺院に逃げ込んだのは必然といえるでしょう。
ニューバガンからチャウに向かう途中にサイタナパヤーというぽつんと一つだけ離れて建つ大きなパゴダがあり、このパゴダの裏手に古いトンネルがあることから大勢の日本兵が逃げてきたといいます。このトンネルは相当古く、昔シャン族の王がつくったと言われていて、その後長い間放置されていました。
敗走していた日本兵がこれを頼りに逃げ込んだのですが、その多くが戦死したのだと伝えられています。
30年以上パゴダを守り続けた守衛が語り部として日本軍の悲話を伝えていましたが、去年亡くなってしまい今は草生すパゴダがはかなさを偲ばせるだけとなっています。
「もう自分も長くないから最後に」と慰霊に訪れた車いすのおじいさんがいました。
「最後にな、線香の一本でもと思ってね」と言って車に乗っていきました。
「パガン五千坊」という言葉の響きには、帰還した日本兵たちの鎮魂の想いがこめられているような気がしてならないのです。
※バガンにはオールドバガン内とニャウンウーの2ヶ所に戦没者慰霊碑があります。