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バガン通信3月号 バガン仏教の戦い(1)上座部仏教の復興

アノーヤター王が帰依した若い僧侶シン・アラハンは、強いカリスマ性を持った求道者だったのだと思います。のちに1190年にスリランカに派遣されていたサパダが帰国し、持ち帰ったスリランカ(シンハラ)仏教の教義が正統であると唱えたために、バガン王国内で宗教論争が勃発、かつて危機的状況にあった上座部仏教を復興させたシン・アラハン派は勢力を失っていきます。と同時に、シン・アラハンの名前も仏教界にとって忘れられた存在になっていきました。

でも、私は彼がいたからこそ、上座部仏教がバガンで浸透し、現在までミャンマーが仏教の中心であり続けているのだと思います。たった22歳でありながらビルマ史上の英雄であるアノーヤターを心酔させ、インドシナ半島に上座部を普及させる下地をつくったというのは尋常ではありません。今回はミャンマー仏教の開祖シン・アラハンに敬意を払い、その名誉回復につながればと思います。

 

ヤンゴンプレス連載・バガン通信

バガン仏教の戦い(1)上座部仏教の復興

 

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バガンはミャンマー仏教の聖地ですが、歴史を紐解くと仏教がバガンに伝播したのはピュー族やモン族の影響で、いわゆる南伝仏教としてスリランカからバガンに伝来したというのは誤りです。

ピュー族はその遺跡がミャンマー初の世界遺産に登録されましたが、ミャンマーで広範囲に勢力を広げていた先住民族です。5世紀の碑文にパーリ語が使われていることから、既に仏教が浸透していた様子が分かります。その他にも南インドに由来する出土品が数多く発掘されています。ピュー族はバガン朝が興る前に衰退していますが、ミャーゼディ碑文にピュー語が刻まれているのでバガンにも多数居住していたのでしょう。

 

一方、モン族は古くから上座部仏教を信仰しており、スリランカなどとも度々交流していた仏教国でしたが、当時の王朝タトゥン国は東からクメール王朝に圧迫され疲弊していたところへ、バガン王朝に責められあえなく降伏、王のマヌーハ自身がバガンへ連行されるなど国が滅びてしまいます。

 

バガン王朝を興したアノーヤターは、それまで人々の生活に深く浸透し強い影響力を持っていた大乗系の密教信仰を改めるべく、権勢をほしいままにしていたアリー僧を追い出し、その代わりに上座部仏教を国是とします。モン族出身の弱冠22歳の僧侶シン・アラハンを師と仰ぎ、仏教をもって国を治めようとしたのです。もっともアノーヤターの時代に残る文字の多くが大乗系のサンスクリット語であることを考えると、まだ国教となる前段階だったのではないかと思います。

 

仏教先進国だったスリランカは、1017年にインドのチョーラ朝の侵攻によりセイロン島の大部分を支配され、島内はヒンドゥー勢力により宗教的混乱をきわめていました。

シン・アラハンに深く帰依したアノーヤターはこれを危惧しスリランカへ派兵、スリランカ国王と共同戦線を敷きます。その見返りとしてスリランカ王より仏歯を譲り受け、1059年アノーヤターはこれをローカナンダパヤーに納めるのです。1070年スリランカ国王は国内を平定した後仏教を再興させますが、その時点で仏教界はたった5人の高僧が残るだけとなっていたため、アノーヤターに使節を送りバガンの高僧を招聘し、スリランカ仏教の立て直しを図るのです。これによってスリランカ仏教は復活し、1153年上座部仏教の大寺派が国教に定められることになるのです。

 

スリランカ仏教は当時消滅の危機に瀕していたため、バガンに復興への協力を求めます。もしかすると、アノーヤターがバガン開府の際にタトゥン国から連行した500人の僧侶の中には、亡命していたスリランカの高僧が含まれていたのかもしれません。

つまりミャンマーは仏教が伝わった国でなく、通史的にいえば、上座部仏教の「中興の祖」だということになります。

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