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バガン最大のミステリー・ダマヤンジーの怪 (2)大僧正出奔

度重なるヒンドゥー教のセイロン島侵攻と、長期にわたり西洋の植民地となったことでスリランカ仏教が衰退し、また緬泰(ビルマ=アユタヤ)戦争などの影響で隣国同士が戦乱を繰り返したこともあり、近世以降上座部各国の関係性が薄れてしまいました。ただ、バガンとポロンナルワの時代背景を読み解くと、相思相愛の深い関係が当時あったことが分かります。現在でもミャンマーとスリランカがもっとも信仰の深い上座部国であることを考えると、何か歴史の必然というか、時代を超えた縁というものを感じます。

 

ヤンゴンプレス5月号掲載「バガン通信」
バガン最大のミステリー・ダマヤンジーの怪

(2)大僧正出奔

 

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1170年に暗殺されたバガン朝のナラトゥ王ですが、その記録がバガンには残されていないために真相はわかっていません。ただ、伏線となる出来事が起きています。

ビルマ側の史書には、仏教の最高指導者である大僧正シン・パンタグが1167年スリランカに出奔するという大きな事件があったと記述されています。バガン仏教の開祖シン・アラハンが逝去したのが1115年で、その後継者として跡を継いだのがこのシン・パンタグです。彼はアラウンシートゥー王の庇護を受け、タビニュ寺院やシュエグジー寺院の建設を主導しますが、王が息子のナラトゥに殺害されると、その背信行為に強く抗議し、スリランカに渡ってしまったのです。

一方、彼が出奔した先のスリランカ(シンハラ王朝)はパラクラマバーフ1世の治世です。このシンハラ王は1153年に念願だったセイロン島を統一し、150年にわたるヒンドゥー教との戦いで荒れ果てていた国土の復興に力を注ぎます。そして仏教国としての尊厳を復活させるべく仏典や教義を見直し、上座部各派の中で大寺派に一本化したのでした。つまり、従来の上座部を改め、南伝仏教と呼ばれる現在の大寺派に変えたのがこの王なのです。
そんな時にバガンから旧派仏教の大僧正が亡命してきたわけです。パラクラマバーフ1世から見たら願ってもないタイミングだったでしょう。

スリランカ側にはバガン仏教の最高位にある高僧が渡来してきた事実は書かれていません。ただ、そのすぐ後にスリランカ王がバガンに派兵し、かの国の王を暗殺しただけで兵を撤退させたと記されているわけですから、両国の記録を読む限り状況と結果はぴったり符合するのではないでしょうか。
ビルマ史家のタントンやルースは、スリランカの襲撃によってナラトゥ王が暗殺されたという説を採用していますが、その理由を貿易利権に関わる両国間の対立としています。ただ私には上座部史の観点から、シン・パンタグの進言によるスリランカ王の政権転覆と大寺派の布教が目的だったと思えるのです。

シン・パンタグはシン・アラハンの愛弟子でしたので、スリランカの新派(大寺派)に傾倒していたわけではなかったと思います。彼としては、ナラトゥ王の非道でバガン王朝が誤った方向に進んでいるのを危惧してスリランカに助けを求めただけだったのかもしれません。

ですが、結果的にこのことがスリランカの干渉をゆるし、バガン仏教も大寺派に呑み込まれるきっかけになったと言えます。バガンはスリランカが復活する以前は、各国の仏僧が逃れる仏教徒のシェルターであり、中国史にも度々登場するほどのアジア唯一の上座部国でした。それが大僧正が亡命するというこの事件によって歴史の流れが大きく変わったと言っても過言ではないでしょう。

その後シン・パンタグは1174年にバガンに戻りそこで大僧正に復帰、まもなく逝去しています。ちなみに、彼が後継に指名した次期大僧正もやはりスリランカで修業したシン・ウタラジヴァでした。そして次第にバガン仏教の教義は独自色を失い、スリランカ仏教に同化していくことになるのでした。

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