バガン&ホイアン便り - ミャンマー・ベトナム観光 情報ブログ

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仮説・バガンがタトゥン国を滅ぼした本当の理由

バガンのパゴダを眺めながら、わたしはずっと次の疑問を持ち続けてきました。

 

「バガン王朝初代アノーヤター王は、征服したモン族のマヌーハ王をなぜ殺さずに生かしてバガンで余生を送らせたのか?」ということです。そして私は長いこと、これはバガンに連れてきたモン人たちを自在に扱うためにマヌーハが必要だったのだと思っていました。しかしその後、周辺諸国とのリンケージな歴史を考えていくうちに、実はそんな小さな理由ではなかったのではないかと思えてきたのです。

 

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バガン王朝を建国したアノーヤター王は、モン族の同じ仏教国家タトゥン国を滅ぼします。そしてタトゥン国の王マヌーハをバガンに連行、幽閉します。これによってモン族の国家は断絶することになります。ただ不思議なことに、その後アノーヤターがやったことはまるで逆で、モン文化の吸収に力を注ぎました。バガン初期のパゴダにはその多くにモン字で書かれた釈迦の教えが刻まれています。また一般にアノーヤターがタトゥン国を攻めた理由は「仏典を譲るよう求めたがマヌーハ王がこれを断ったため」とされていますが、よく考えるとずいぶん稚拙な理由で、子供がガンダムのおもちゃを貸してくれないから友達をいじめるという理屈と大差ありません。この辺は慎重に検討する必要があると思っていました。

 

アノーヤターはタトゥンを滅ぼした後、三蔵経典を入手し、ピタカタイという経庫をつくりそこに奉納します。その他アノーヤター期につくられたパゴダは後世と異なり、その多くが仏典や舎利などを納めたものばかりで、この地に仏教の聖地をつくるのだという王の意思が強く感じられます。

ではそれはなぜだったのか?

 

話は変わりますが、パーリ語で書かれたスリランカ正史・チューラバンサ(小史)に次のような記述があります。

 

“11世紀シンハラ王朝を再興したヴィジャヤバーフ1世は、仏教の保護にも力を注ぎます。ただセイロン島にはヒンドゥーの侵攻により上座部の仏教儀式を行えるだけの高僧がほとんどいなくなっていたために、教義に詳しい仏僧をラーマナー(バガンのこと)の友人アノーヤター王(当時の読みはアヌルッダ)に依頼し派遣してもらった。これによってシンハラ仏教は復活をとげたのである”

 

驚くことに、この事実はミャンマーではほとんど知られていませんが、スリランカではよく研究されていて、11世紀のシンハラ仏教の復興はビルマのプロジェクトとして行われたという注釈がスリランカ考古庁になされているぐらいなのです。

 

さて、このあとスリランカ小史には、3つのピタカ(三蔵)という言葉が頻繁に登場します。

3つのピタカがスリランカには失われていたのですが、バガンにはこれがあった。そしてラーマナーのアノーヤター王はシンハラ王朝の首都ポロンナルワの古いパゴダを修復し、この3つのピタカを奉納したなどと記されていて、アノーヤターが上座部にとってもっとも大切なものを遠いスリランカの地に寄進したということが分かります。

 

以上のことからわかることは、アノーヤターがバガンを興した11世紀中旬の時点では、バガンにもスリランカにも三蔵経典が存在しなかったということです。これは非常に重要なポイントです。そしてアノーヤターが力づくで奪ったように、モン・タトゥン国には経典が存在したこと、そして当時の仏教界にとってそれが本当に貴重な至宝であったということです。

 

つまり、バガンのアノーヤター王は、ガンダムのおもちゃを貸してくれないから隣国をこらしめたという次元の理由ではなく、現生にほぼ唯一ともいえる釈迦の正統な教えをつなぐために、武力でもってしても入手しなければならなかったということのように思えます。さらに言えば、私はタトゥン国を亡ぼしたのではなく、同じ上座部国を吸収合併しただけなのではないかと思っています。理由は、バガン仏教の精神的支柱であった大僧正シン・アラハンはモン族の出身であり、伝説ではタトゥン国の生まれだというのです。俗的に考えれば、同じ門徒の国を宗教的な理由で攻撃することはあり得ないのではないでしょうか。ちなみに、シン・アラハンは11世紀の仏教を考える上で大きな存在であり、アノーヤター王が帰依したこの仏僧がキーポイントとなって上座部仏教を動かしたといっても過言ではありません。

 

さて、話を戻しますと、ビルマ史ではタトゥン国から800人の僧侶をバガンに移住させたとされています。そして面白いことに、スリランカ小史には、バガンから僧侶を派遣してもらったおかげで、その後まもなくしてシンハラの僧侶は数百人になったと記述されているのです。ビジャヤバーフ1世がシンハラ王朝を復活させたときに、「高僧の数が少なすぎて、サンガ(仏教僧団)組織になりえなかった」と書かれていますので、一般に当時高僧は4人未満しかいなかったといわれています。この後バガンは大挙スリランカに僧団を送るわけですが、私はこの僧侶たちにはタトゥン国に避難していたシンハラ人が多く含まれていたと考えています。

 

1017年にヒンドゥー教国のチョーラ朝にほぼ全土が制圧されてしまったスリランカですが、それまで首都のあったアヌラーダプラは仏教でいえば伝説の土地であり、600年続いた仏教の聖なる都でした。1つの都市だけで何万人も修業に励むような仏教国から僧侶が消え、4人になってしまった。常識的に考えれば、昨日まで功徳を積み重ねてきた人たちが突然還俗して、棄教することは考えにくい。もちろん捕まってしまったら棄教することもあるでしょう。しかしその前の段階だったら、大抵逃げただろうと思うのです。それでこの時に逃げた先が実はタトゥン国だった、と考えると各国の状況がぴったり符合します。

 

余談ながら、上座部仏教の中興の祖ともいえるシン・アラハンですが、一説にはタトゥン国王のマヌーハに仕えていたものの、王がヒンドゥー教に傾斜していったためにこれを強く危惧し、東の強力なクメール王朝からの圧迫もあり、このままでは上座部が滅びてしまうと国を出奔、中国まで行って仏教を布教したものの見向きもされなかったために、南下したところバガンにアノーヤターという信仰深い武人がいて尊崇を受けたために生涯をバガン王朝に捧げたという話があります。真偽のほどはともかくとして、状況としては各国にある神話がかった王統記よりよっぽどリアリティがあります。

 

さて、その後1070年にアノーヤター王は、ヴィジャヤバーフ1世から贈られた仏歯のレプリカを奉納するためにローカナンダパヤーを建立しますが、興味深いことにヴィジャヤバーフは異国の王であるアノーヤターに対し、「友人であるアノーヤター王」と呼んでいるのです。あちこちで戦乱が起きている時代ですから、友人というからにはバガンとシンハラ王朝はただの同盟関係ではなかったのでしょう。やはりそこには、同志としての強い絆があったということだと思います。その後仏教の主導権は次第にスリランカに移っていきますが、バガンではアノーヤター王だけでなく歴代各王ともスリランカを兄国として敬慕し、信仰を支えてきた歴史が続いています。

 

こうやって上座部全体の歴史を紐解いていくと、アノーヤターがタトゥン国を滅ぼした理由というのは、本当は悲壮な想いだったのではないか、おそらくは流浪していたシン・アラハンの話を信じ、ピュアな信仰と遠い異国の出来事に思いをはせ、それを具現化していったのではないかと思うのです。

 

時は下り21世紀の現在、チューラバンサを読むシンハラ人もほとんどいなくなったはずです。ところが不思議なことに、ミャンマーで仏教徒に対するネガティブなニュースが流れると、スリランカで連帯するデモが起こるのです。ミャンマーに行ったこともなければ、知り合いがいるわけでもない人たちです。

私には、アノーヤターがヴィジャヤバーフ1世に共感した想いが今でも連綿と受け継がれているからだと思えてならないのです。

 

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