バガン通信4月号 バガン仏教の戦い(2)密教の系図
今回はこっそりとアップします。
あくまでミャンマー仏教に敬意を持ち、バガンの仏教が当時の上座部そのものを支えてきたのだと強く信じています。
その上で、歴史背景を考えるとこうなると思います。
18世紀にマンダレーのコンバウン朝が王朝としての勢いを失っているにも関わらず、各国の高僧を集め上座部の経典編集を行ったのも、現在のミャンマー仏教界があれだけの存在感を持つのも、バガンの仏教からの歴史と見れば当然だと思います。
よく脈々と続いてきたなと思います。すごいと思います。
ヤンゴンプレス4月号掲載
バガン仏教の戦い(2)密教の系図
バガン朝は空白の時代と言われます。あまり研究がなされていないからです。
特にバガンの仏教に関しては、上座部仏教の発展において重要な役割を担ったにも関わらず、12世紀に国王がスリランカの大寺派を採用したことで、シン・アラハンの流れを汲む守旧派と新派が200年に亘って対立し、それ以前の活躍がぼやけてしまったことは非常に残念と言わざるをえません。
バガンの仏教は上座部仏教が基層にあり、大乗仏教やヒンドゥー教が近隣から流入して、それを国王によっては受容してきたというのが真実だと思います。アノーヤターが上座部を導入したものの、周辺諸国の状況はバガンの安定を阻みます。
すぐ西のベンガルではヒンドゥー教の新興国がおこり、大乗仏教徒を追放します。また大国インドでは1203年イスラム教の侵攻によりインド仏教が滅亡、大学にあたるヴィクラマシラー寺院が破壊されるなど壊滅的な被害を受けます。この大規模な大乗仏教への迫害により、バガンへも多くの大乗教徒が逃げてきたと考えられます。
バガン朝3代国王のチャンシッターはアノーヤターの遺志を引き継ぎシン・アラハンに師事、上座部仏教の浸透を進めます。しかしこの寛容な王は、インドから迫害された8人の高僧をバガンに招くなどしたために、バガンの仏教文化はやや習合的になっていきました。特に王妃のために建立したアベヤダナ寺院などは、東北インドのパーラ様式を取り入れた寺院で、他教を受容したチャンシッターならではといえます。ただ、チャンシッターの行った民族融和政策は、結果的にはインドシナ半島に上座部仏教を布教させることにつながり、シン・アラハンの絶大な指導力もあってバガンは周辺諸国への仏教発信国となっていったのです。
なお、チャンシッターの特筆すべき功績は、荒れ果てていたインドのブッダガヤ寺院を修復したことです。他教徒に寛容でありながら、熱心な仏教信仰を持ち合わせていた君主ぶりを示す逸話です。
その後バガン仏教は西からの大乗教徒の流入が顕著になったために、7代国王ナラパティシトゥが学僧をスリランカに派遣、10年後にサパダらが帰国してスリランカの大寺派を導入しますが、インド仏教が崩壊したために大乗・密教集団の移入を止められず、13世紀にはパヤトンズ遺跡群など新しい仏塔群の多くに密教文化の跡を残すことになりました。その後バガン王朝の瓦解とともにミャンマー西部では大乗系が浸透していきますが、15世紀スリランカより再移植することで上座部が全国的に勢いを取り戻し、現在に至ります。
バガン時代の上座部仏教を見ると、スリランカは危急存亡に際しバガンの援軍により復興、その後もことある毎にミャンマーから高僧を受け入れ、ヒンドゥーの浸透をからくも防いできました。地理的劣勢もあり発展と衰退を繰り返してきた母国スリランカ、それを必死に支えてきたミャンマー仏教の聖地バガン。華麗な仏教文化の裏にはこんな苦難の歴史があったのかと思うと、遺跡観光もまた一味違ったものになるのではないでしょうか。