バガン&ホイアン便り - ミャンマー・ベトナム観光 情報ブログ

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スワンナブームの話(終)スワンナブームはどこにあったか?

長々と趣味に走ってしまいましたが(笑)、先日インドの専門家の方と久々にお会いしまして、上座部の発生について「大寺派ができるときにスリランカがつくったものだと思う」と言っていて、なるほどなと思いました。
つまり、いわゆる上座部の教義とは大寺派以降(1153年)のもので、それ以前のモンやバガンで信じられていた上座部はかなり相違があったであろうということでした。

私もこれまで述べてきたように、シュエサンドーパヤーがかつてガネーシャパヤーと言われていたり、バガンの壁画にシヴァ神が描かれているものが少なくなかったり、タイムスリップしてきたタモテ・シンピン・シュエグジーになんだか分からない異教のもののような仏像がでてきたりと、いまの上座部ではまったく説明がつかない痕跡がたくさん残されています。
バガン仏教派とシンハラ大寺派が200年にわたって宗教論争を続けたということは、やはり宗派が違うといえるほどの大きな隔たりが当時はあったのかもしれませんね。

 

ヤンゴンプレス連載「バガン通信」11月号掲載

スワンナブームの話(終)スワンナブームはどこにあったか?

 

 

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バガンは1287年モンゴル帝国の侵攻により陥落、国家は存続しますがこの時事実上滅んでしまいます。

タイのチェンマイで、ビルマ語とモン語で刻まれた11世紀の仏教碑文が発見されていますので、バガンの版図は現在の北タイあたりまで広がっていたことになります。バガンの崩壊によって、チェンマイ周辺ではランナー朝が興り、バゴーではペグー朝が建国します。その東では初のタイ族国家となるスコータイ王朝が勢力を広げていきますが、スコータイ朝第3代国王のラムカムヘン大王は突如上座部仏教を導入します。正確な年代を特定するのは難しいですが、ちょうどバガン王朝が崩壊したのと同時期にあたります。

 

不思議なことに、上座部はスリランカがインドの圧迫を受けて壊滅状態にあるときにはモン族に庇護され、その後バガンに移り、バガンが滅びるとスコータイへと、保護国家の勢いがなくなると拠点が移っていきました。日本の禅宗と同様、ストイックで信者に慎ましい暮らしを求める教義であるため、新興国家にとって民衆の支配に都合が良かったのかもしれません。

そして、バガン王朝が隆盛をきわめている頃小国スリランカが復活、古典的な教義の大寺派が主流となり、スコータイ以降カンボジアやラオスに伝わるようになりました。

世俗的な信仰で一世を風靡したヒンドゥー教は次第に勢力を弱め、逆に消滅の危機を何度も経た上座部がインドシナで一気に拡大していきます。その後は現在に至るまで5ヶ国で信じられ、人々の生活に根づいた信仰が脈々と受け継がれています。

 

「アショーカ王が最初に仏教を伝えたスワンナブームはどこにあったのか?」と時々議論になることがあります。スワンナブームはタイ・バンコクの空港名にもなっていますが、周辺諸国も「自国に存在した」と主張しているため度々問題になります。実際にはモン族の居住地域にあったのではないかと思いますが、モン族自体がバガンにも強い影響を与え、スコータイにもその文化を残し、スリランカと深い交流を持っていたことを考えると、場所を特定しようとするのはあまり意味のないことのような気がします。
それに、インドシナ史研究自体が進んでおらず、ではクメール民族とビルマ民族は遠いからまったく関係ないかといえば、バガン王朝を形成していた主要民族の中にクメール人がいたわけで、民族と(現代の)国家を分けて考えるべきだと思います。

 

さらに言えば、部外者の私にはこの“スワンナブーム論争”に対する答えを探すよりも、「スワンナブームに落ちた信仰の芽が5ヶ国に拡がり、現在まで続いている」という奇跡的な事実の方がはるかに重要なことであり、マヌーハ王やアノーヤター王、シン・アラハン、ラムカムヘン大王ら多くの先人たちの功徳があっていまに至っているという歴史の深さを考えるなら、民族間のいざこざなど涅槃の邪魔にこそなれ、アショーカ王の遺志ではないはずだと思えてしまうのです。

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