バガン&ホイアン便り - ミャンマー・ベトナム観光 情報ブログ

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ダマヤンジーの怪 (終)相思相愛の千年

スリランカのポロンナルワを見ると、当時のシンハラ王朝が仏教修学の再興をもっとも重要だと位置づけ再建していったことが読み取れます。つまり、バガンやモンに広がった上座部の教義がハナレていってしまうことに強い危機感を抱き、復古主義的に大寺派を採択していったのだと思っています。今に残る膨大な数の僧院の柱を見ていると、バガンの軍事力に頼った若いシンハラ王のみなぎる意志が伝わってくるような気がするのです。

 

ヤンゴンプレス7月号掲載・バガン通信
バガン最大のミステリー・ダマヤンジーの怪

(終)相思相愛の千年

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前回、アノーヤター王時代にスリランカ仏教を復活させたのは、バガン王朝の使命として行われたとお伝えしました。しかもスリランカ側がそう認識しているというのがすごいです。周辺諸国がスリランカ仏教を守ることを使命だと考えていたことは、その後何度も繰り返しビルマやタイから教義の再注入が行われていることからも明らかです。

セイロン島は小さな島国であり、また西洋とアジアを結ぶ航路の要衝にあります。そのため度々列強の侵略にあっていますが、スリランカも上座部を信仰する周辺国もそれを認知していたのだと思います。そうでなければ、ビルマにしたら自国に教派としての主導権を移せるにも関わらずそうはせず、わざわざ“どうせまた侵攻を許すであろう”小さな島国の仏教を復活させようとは、仏教の将来を考えても効率の悪いことだと思います。それでもビルマやタイがスリランカ仏教の復興にこだわってきたのは、アショーカ王の伝えた仏教最重要の聖地であるという崇敬の想いと、釈迦のオリジナルの仏歯という神器が存在したことが大きいのではないかと思います。

話を戻しますと、1170年ダマヤンジー寺院はスリランカ王パラクラマバーフ1世の攻撃により主を失い、いわば負の遺産としてビルマ史に名を刻んでしまいます。そのため今でも幽霊が出るという伝説がまことしやかに信じられているわけです。
その後1180年にスリランカに留学していた学僧サパダが帰国、各国の修学僧とともにバガンで大寺派が正統と唱えその普及に努め、バガン仏教改革ともいえる論争を巻き起こしました。論争自体は200年続きましたが、バガン仏教界がそれを受け入れたということは、やはり聖地スリランカを宗主と仰いでいたからなのではないかと思います。

現在のスリランカ仏教の主要二大宗派は、アマラプラ派とアユタヤ派です。これは16世紀にセイロン島が植民地になった後、ビルマ・コンバウン王朝時代とタイ・アユタヤ王朝時代に伝わったものです。当然もとをたどると12世紀のスリランカ大寺派です。ですが、スリランカ仏教が衰退して、ビルマとタイの尽力で復興したものが現在まで続いているというのはある意味驚嘆に値します。

なんだか聞いたような話ですよね。そう、バガン王朝がシンハラ仏教を復活させたのと同じことがここでも起こっているのです。

以上のように上座部史を眺めてみると、ダマヤンジーの変は、おそらくはスリランカが起こした内政干渉の暗殺事件であったと思いますし、それによってバガン仏教が大きく転換したのも事実でしょう。ただ、こうやって上座部の内面を覗いてみると、それはスリランカの意思ではなくて、本当はバガンの求めたことなのかもしれないと思えてならないのです。

現在でも上座部でもっとも深い信仰を持つミャンマーとスリランカ、両国ともこれまで述べてきたような上座部(大寺派)草莽期の歴史と絆ははるか昔に忘れてしまったはずです。ところが不思議なことに、お互いにその国名を言うと、「ああ、素晴らしい国だ」とほぼ全員が口にするのです。私は、この理屈を超えた両国の相愛の思いに驚くとともに、アショーカ王の伝えた美しいこの信仰が、時代の移ろいというだけで決して廃れないよう、これからも外から応援していきたいなと強く思うのです。

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