バガン&ホイアン便り - ミャンマー・ベトナム観光 情報ブログ

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南伝仏教の誤りとビルマ族の興り

※ひさびさにマニアック路線です。興味がある方だけどうぞ。

 

ミャンマーに仏教が伝来したのは、日本では南伝仏教としてスリランカから伝わったとされていますが、これは明確に間違っています。

 

ビルマ族初の統一王朝がアノーヤター王が興したバガン王朝ですが、王は上座部を国教と定め仏教の教えをもって国を治めようとします。これが1044年のことです。
そしてバガンの仏教はモン族から移入したものです。当時バガンにはアリー僧(おそらく大乗の一派)と呼ばれる堕落した僧団がいて人心を惑わすために、これを排除しようとして上座部を国是にしようとしたと言われています。

 

モン族はもともと強い信仰を持つ上座部国でしたが、14世紀までにほぼすべてのモン族の国家が消滅してしまったためにどのような民族だったのかわかっていません。スリランカとも交易を持っていたようで、仏教先進国だったと考えられています。

 

さて、その仏教発信地だったスリランカですが、当時のシンハラ王朝は北からヒンドゥー教の侵攻を受けほぼ壊滅状態でした。スリランカ考古庁は、「高僧がほとんどいなくなって、サンガが成立しえなくなった」と書いていますので、一般に高僧が4人以下になったいたとされています。アジア中から学僧が修行に訪れた仏都アヌラダプラは荒廃し、国土の4分の3を奪われるというあり様でした。

 

リンケージな歴史を組み立てると、このスリランカの高僧の多くがモンに逃避してきていたのだろうと考えています。そしてモン国家のうちもっとも権勢を誇っていた国がタトゥンでした。
バガン朝を建国したアノーヤターはタトゥン国を攻めます。その理由は「三蔵仏典を譲るよう求めたがこれをタトゥン王が断ったため」と言われています。

 

面白いことに、この仏典を奪ってのちピタカタイ(三蔵経庫裡)に奉納するのですが、現在スリランカのポロンナルワには“戦乱によって失われていた三蔵経典をラーマナー(バガンのこと)の友人であるアノーヤター王はわが国に取り戻してくれた”と記述されているのです。

 

私は史実として、バガンのアノーヤターは、仏典を譲らなかったからタトゥン国を攻めたわけではなく、仏教先進国であるタトゥン国を吸収したと考えています。理由の1つは、タトゥン国の王マヌーハはバガンに移住させられるのですが、かなりの自由を保っていたらしく、自身の寄進によってマヌーハ寺院を建て周囲はすべてモン族の寺院が立ち並んでいます。そしてバガン初期のパゴダや寺院のほとんどはモン族の職工がつくった痕跡が残されているのです。

 

そしてもう1つの理由は、バガン仏教の精神的支柱となった大僧正シン・アラハンはモン族であり、一説ではタトゥンの出身だとされています。このことからも、アノーヤター王がモン族の文化を吸収して仏教を自国に取り入れようとしたことがわかります。しかも、経典をスリランカに返還しただけでなく、数百人もの僧侶を派遣します。そして現在スリランカの国立博物館には「シンハラ仏教の復活はビルマの主導によって行われた」と明記されているのです。

 

つまりこの時点でわかることは、上座部発信地であったスリランカが存亡の危機にあったため、多くの僧侶が避難していたモン・タトゥン国をバガンが武力によって吸収し、その後スリランカ仏教を復活させるために尽力した。ということで南伝仏教は正しいかのように思えます。

 

ところで、バガン王朝の前はピュー王朝時代です。バガンはビルマ族、ピュー王朝はピュー族ですので、直接的な関わりはないように感じられますが、バガン初期の寺院建築に用いられたレンガの多くがピュー王朝の都市タイエーキッタヤー(スリクシェトラ)のものと同一だと認められます。そして、バガンはアノーヤターが最初につくった都市ではなく、バガン←パガム←ピュガム(ピュー族の村)という地名の変遷からも多くのピュー族が居住していたことが分かっています。世界記憶遺産に登録されたミャーゼディー碑文も書かれている4つの言語のうち1つはピュー語です。

 

また伝説では、アノーヤターが建てた主要なパゴダのうちシュエジーゴンパゴダの中には、タイエーキッタヤーから持ってきた仏舎利(あごの骨)が奉納されているといい、ピューの説話にも、「王国が滅びる際王族のほとんどが殺されたが、王子のひとりがバガンに逃れた」という記述が残されています。

 

要するにピュー王朝もれっきとした仏教国家であり、タイエーキッタヤーにある国立博物館にも多くの仏教関連遺物が展示されています。ピューは王族の出自がインド系であることからもスリランカ経由ではなく、インドから直接仏教が伝来しています。モンを除くタイ地方やカンボジア(古クメール)にも仏教が伝わっていますが、これらもインド由来です。

 

南伝仏教がインドシナ各国に伝来してはじめて仏教が伝わったというのは間違いで、それ以前に仏教はあったわけです。ではなぜスリランカから伝播したことになっているかというと、

 

12世紀にスリランカで仏教革命が起こります。それまでは多くの分派が存在したのですが、それを時のシンハラ王パラクラマバーフ1世は大寺派が正当とし、それ以外をすべて異端として排除したのです。当時バガンや周辺諸国でも仏教が信仰されていましたが、スリランカはそれを他国にも強要します。バガンでは学僧サパダらが、この大寺派が正当とされたことを持ち帰って運動をおこしますが、それまでの守旧派が反発、200年もの間バガンで宗教論争が続いたと書かれています。
その後守旧派は消滅し、大寺派が本流として現在にいたっています。

 

つまり、南伝仏教とはこの大寺派のことであり、正確にいうならば“12世紀スリランカでは宗教改革を行い、各国もそれに従った。それが現在に続く上座部仏教に続いている”というべきで、南伝仏教によってインドシナ各国に仏教が伝わったというのはまったくの間違いだということになります。

 

さて、現在のミャンマーを形成する主要民族のビルマ族ですが、起源があいまいです。19世紀に西洋人がビルマ=チベット語族と分類して、ビルマ族は中国雲南の南詔あたりから突如くだってやってきたことになっていますが、私はこれは荒唐無稽なこじつけだと思っています。

 

ビルマ雲南起源説の根拠として、ビルマ語がバガン王朝時代以前に使われた形跡がないというものがあります。ビルマ史家タントゥンは著書の中で、石碑の中でビルマ語が最初に使われるのが1113年以降であり、それ以前はモン語が使われていると書いています。つまり、ビルマ語を持っていたビルマ族がバガンにやってきたわけではなく、ビルマ族は1113年までモン語を使っていたということになります。

 

「ビルマ族」という呼び名がいつから使われたのか分かりませんが、たとえば李氏朝鮮でハングル文字を1446年に世宗大王が制定したように、ビルマ語も途中から使われたという可能性が高いです。ですので質問するならば、「ビルマ族の出自は?」ではなく、「アノーヤター王はどこの民族出身だったか?」という質問であれば正しいのではないかと思います。

 

碑文研究の第一人者である大野徹は、バガン王朝は多くの民族から形成されていたと書いていて、王朝内にはクメール人の大臣が存在したことが指摘されています。このことから、バガンとはビルマ地方の多くの民族の集合体で成立していたのではないかと考えられます。ちなみにバガンにいた主要民族は、ピュー族・モン族・インド人・クメール人・タイ族となっていますので、要は周辺の人々すべてがいたということになります。

 

ビルマ族の起源はなにか?に対する答えは、「どこそこにいた民族」と答えるのではなく、「ミャンマー初の統一王朝であるバガン国を形成した人々」というのがもっとも正解に近いのではないかと思うのです。

 

 

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