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今日は何の日「独立を夢見た鈴木大佐への送別の日」

※全編翻訳のみです。

※ソース:

www.irrawaddy.com

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1942年のこの日7月12日、バー・モウに率いられたビルマ独立準備委員会は、陸軍の帰国命令によりラングーンを離れなければならなくなった鈴木敬司大佐の送別会を催した。

鈴木は、読売新聞特派員という肩書でラングーンに赴任、援蒋ルートのひとつビルマルートの遮断を企図する指令を受けていた。彼はビルマの若き独立運動家たちに接触、大本営直属の特務機関「南機関」の機関長として1年以上活動した。そして、“ビルマ建国の父”アウンサン将軍を含むビルマ青年30名を密かに国外に脱出させ軍事訓練を施した。鈴木はビルマ独立義勇軍(BIA)設立の中心的役割を担ったのである。

戦時中、鈴木は味方の前では“雷”を意味するビルマ名「Bo Mogyo」と呼ばせ、自らをイギリスによって国外に追放されたミングン皇子の子孫だと名乗り、市民の支持を得たのであった。

鈴木は、ビルマの独立を願い、また伝えられるところによると日本に背き、独立軍によって彼自身の政府を打ち立てることをほのめかしていたとされる。
1962年のビルマ軍事クーデター以前にネ・ウィンの代理として司法副長官を務めたマウン・マウンは、1959年鈴木を訪ねた。後年1988年の民主化運動の最中に大統領職にも就いたマウン・マウンは、「もし日本軍に反旗を翻したら義勇軍は自分に従ったか」と鈴木が尋ねてきたと主張している。

なぜ鈴木が反乱を企てようとしたのか定かではないが、大本営の命令でなく自らの手によって義勇軍を動かしたかったのかもしれない。
もしかすると彼はビルマの志士らの独立闘争を美化し、自らを主役とすることを夢想したのかもしれない。
しかし、彼の夢は実現せず、1942年帰国命令が下る。

送別会の2日後鈴木は東京へと戻り、その後運輸部や船舶輸送に携わり、船舶輸送司令官に就任、終戦を迎える。敗戦後イギリス軍からBC級戦犯に指定され、ビルマに連行された鈴木だが、アウンサン将軍らの猛抗議により釈放された。

1966年実権を握ったネ・ウィンと東京で会い、その1年後鈴木は死去する。
1981年ビルマ政府は鈴木に対し、国家最高の栄誉である“アウンサン・タゴン”(“アウン・サンの旗”の意)勲章を贈ることを決め、夫人が来緬し授与式を行っている。
なお、ミン・アウン・フラインミャンマー国軍司令官も2014年鈴木の墓を訪れた。



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