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スワンナブームの話(4)バガン宗教論争

バガンの人たちは、サパダパヤーの歴史的な意味を深く知りません。ただこのパゴダには特別な力があると信じられています。

軍事政権時代、ときの権力者がこのパゴダの尖塔部を変えて金のものにしようと計画したことがありました。ところが工事をはじめた途端、このパゴダに雷が落ちて足場が壊れてしまったという出来事がありました。それ以来バガンの人たちからすごい霊力があると畏怖されるようになったということです。

あれ、あんまり本文と関係なかったですか?すみません。はは

 

 

ヤンゴンプレス連載「バガン通信」9月号掲載

スワンナブームの話(4)バガン宗教論争

 

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サパダが帰国後建てたサパダパヤー。彼によってバガン仏教が大きく変わることになった。

 

これまでバガンにおける上座部仏教の歴史をお話ししました。
流れとしては、大乗仏教やヒンドゥー教が拡大する中、次第に上座部は勢力を弱め、発信地であったスリランカや広範囲に信仰が浸透していたモン族の地域も、他教徒である周辺の強国に挟まれ衰退していました。そこに突如としてバガン王朝が現れます。


私はこのバガンによる突然の上座部の復活は、宗教的、歴史的に見てなにか必然的な理由があったのではないかと思います。ただそれが何なのか想像がつきません。ともかくも壊滅寸前だった上座部がバガン王朝によって復活を遂げ、その後現在に至るまで脈々と受け継がれる一大宗教に発展するわけです。

そして、その後に起こった現象はというと、迫害を受け各地に散らばっていた僧侶がバガンに集結したことです。強力な武力を背景に拡大していたバガン王朝に庇護されて上座部は勢いを巻き返し、逆にインドシナに少しずつ浸透していきました。南伝仏教としてスリランカが再興する以前に、タイやカンボジアに古い仏教の痕跡が残されているのはこの時代のものだと思われます。

その間12世紀にバガンで宗教論争が起こります。モンから来たシン・アラハンは上座部の復興を願ってバガンで布教しますが、バガンの下地には大乗仏教があったために本来の上座部の教義からやや離れた形で発展していったのだと思います。それが対立となって表面化するのが、1190年当時の王がスリランカに派遣した学僧サパダが帰国してからのことです。時の王ナラパティシードゥーは、スリランカ仏教が復活し古来の宗派大寺派を採択したと聞き、その教えを吸収しようとサパダを派遣するのですが、これが火を付ける結果となりました。サパダが帰国し、スリランカの大寺派の教義を持ち帰るとバガン仏教界を二分する大論争がまき起こり、その後スリランカとの関係が断絶するなど両国の関係に様々な影響を与え、論争自体も200年続き最終的に大寺派に吸収されたとされています。

当時の守旧派はというと、シン・アラハンの教えが正しいと主張したバガン仏教派でした。新派は大寺派で、シンハラ派とも呼ばれています。シン・アラハンの唱えた上座部がどのようなものだったか正確に伝わっていませんので分かりませんが、大寺派の教えとはだいぶ離れていたので分派と見なされたようです。
バガン仏教の父とされるシン・アラハンはその功績に比して、上座部全体の評価が低いのはこのあたりに起因するのだと思います。

シン・アラハンはスリランカの高僧とも深い交流があったモン族の出身でしたが、おそらくは新天地のバガンで民心を束ね、壊滅寸前の上座部を立て直すには民間信仰(ナッ神がその代表です)との習合もやむを得ないと考えたのではないでしょうか。

シン・アラハンの人生を考えると敗者に対して賛辞をおくるような心境になりますが、結果的には上座部の踏み台となり、その信仰を途切らせることなくバトンをつないだ役割を果たしたと考えると、仏教徒としての功徳はこれ以上ないほど積み上げたわけで、涅槃という意味では彼の死後起きたことはあまり意味のないことなのかもしれません。

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